【はじめに】
〔創作大賞2026、エッセイ部門に応募した作品です〕
「生き方を考えようエッセイ」です。
「役に立ったかも」、それ以上のことはないです!
コンセプトを紹介。「僕の内面が知られていくと、どのような人に出会えるのか」とワクワクしながら共有してます。
「前回読んでないよ」。大丈夫、読めます。
今回もゆったり読んでもらえると幸いです。
【社会性/社交性・ヒュッゲ・狂気的自由】
羨ましく感じる時がある。「うわ、すげえのびのびやってんな」と思った時だ。
スポーツ、Podcast、動画編集…と枚挙にいとまがない。
もちろん″のびのび″には、それ相応の環境や努力が要される。何でも言えるような仲だったり、考えなくても勝手に身体/手が動いたり…と。
″のびのび″は疎遠だと思っていた。まるで他人事のように。
2026年5月、『出会い系エッセイ』を書き終え、思った。「案外のびのび書けたね」。
何となく「せっかく生きていくなら、この″のびのび″方面を目指そう」と感じていた。
楽しく、生きている喜びを味わえるからだ。特筆すべきは、周りの人も楽しめるという点だ。
カフェ、飲食店で「隣の人の話すごい気になる/面白い!」こんなことなかっただろうか?
その場で話している人たち全員がフロー(没頭している)状態とでも言おうか。周りを惹きつける魅力が生まれる。とても素敵なことだ1。
暗い話になる。社会人になってから、現実的な会話が多い。友達と話す内容も。
当然と言えば当然だ。1日の大半を仕事に充てているんだから。百も承知だ。
だけど、「つ、つまんない…」と思ってしまう。まるで、全てを仕事に捧げてしまっているようではないか2!
やっぱり現実的な話をすることは普通だ。正確に言い表わすと、非日常的な時間・空間が愉快すぎるのだ。論点はそこだ。
個人的な時間・休日が味わい深いこと、そこに相違はないだろう。
ここでは、自然と美術館は″のびのび″していてヒュッゲだということを言及していく。
また暗い話をしよう。のさばる現実的な話の渦中では息苦しい、と感じる。
みんな各々が豊かな経験を積み、学んできた。
なのに、この渦中では社会性と「その人」とが、分離してしまっている(ように見える時間が長すぎる)。
ワークライフバランス、ソーシャルネットワーキングサービスに表れているよう、「それはそれ、これはこれ」といった趣だ。
確かに、もうこの環境が染み込んでいる。街中の人に「最近何かを考え、行動し、ぼちぼち上手くいったことは何ですか?」なんて聞けない3。
それと似たような状況が連鎖的に広がっていると感じる。これが「生きていく」ということなのだろうか?
僕は25歳で人生経験、知っていることは少ない。
だが、確実に「社会性を帯びた現実」からスルスルと抜け出せる場所がある。
それは、自然と美術館だ。みんな適当すぎるし、みんな本気だ。そう感じる。
鳥を見てみよう。早起きして、鳴いて歩いて、なんか食べてる。夕方くらいから姿を見ない。雨の日はどこにいるのかわからない。
「こんな感じでいいよな」とぼんやり思う。
僕らは「本当にやらないといけないこと」なんてないし、産まれる前から、この世界は回り続けていたみたいだ。
こんなことを言う僕は疲れているのだろうか?
ちょろっと違う。「生きていてよかった〜」とあたたかい気持ちを抱いて生きていきたいのだ。
そこを強調する過程では、社会性/社交性の乏しい今の話に触れないといけなかった4。
ふにゃふにゃ言っているが、これは創作だ。自分のため、誰かのためにやっている。
そして、″のびのび″論の中核だが、創作と会話こそ、「自分にしかできない」と思わせてくれる(そして身近だ)。
22歳。入社してから思っていたことがある。
「俺が入社する前から、この会社は回ってたんだよな」。なんてやつなんだろう!「頑張ります!」みたいな気概がちっちゃすぎる。
そう、「自分にしかできない」ことを(不遜にも不躾にも)希っていたのだ5。
あっちゃこっちゃ激突しながら、最近気づいたことがある。「会社は回ってたけど、人間関係は『自分にしかできない』ことだよな」。
そう、会話を中心に築かれる人間関係は、とても特殊だ。
だが、今までの話を振り返ると?現実的な話は、「つ、つまらない…」のだった。
そう、仕事だろうが私生活だろうが、ずっと非現実的な話はできない6。
困った!「自分にしかできない」会話もなかなかに塞がれている(僕が経営者で、みんな駄弁っていたら確かに怒るかもしれない)。
なら、創作はどうなのだろう?
最近たまたま渋谷へ行く機会があった。近くに「UESHIMA MUSEUM」(植島美術館)があったので行った。
歩き、ぼんやり眺め、「これこれ!!」と頻りに思った。かなりにっこりしていた。

自分が瑞々しく、ピチピチで、生き生きしていることがすぐ分かった。
なぜだろうか?「みんな適当すぎるし、みんな本気」だからだ。とても″のびのび″している。
言い換えれば、幸いにも「その人にしかできない」ことばかりの空間にポツリと居たからだ。
想像に及ばないほどの苦悩・喜びのまっただ中で、反復的に作品を編み出していく。
芸術がわからない?僕もわからない。
ただ「こうやって生きていていいんだ」ということが、じんわり伝わる。
どこかに僕が会いたい/目指したいと思える人がいる。それはやはり生きていく希望となる7。
現実的な物事がポツリポツリと、少量だが確実に滴る。
そして、「自分にしかできない」を穿っていく。気づけば僕らは──不可逆なまでに──風変わりな型になっている。
そんな状況に「待った!」をかけるのが、美術館と自然だ。
芸術と違いはあれども、自然も″のびのび″している。にょきにょきしたり、うねうねしたり、目一杯に生い茂っている。
どちらも狂気的なまでに自由だし、非日常的だ。ルールがないようで、こっそりルールがある。確かに人為的/生物的なのに、そこには誰もいない。
「こうあるべき!」とは言わないが、「生きていくこと」に幅を持たせてくれる。また、穿たれた穴を癒してくれる。
ヒュッゲだ。頗るヒュッゲだ。
デンマーク語で、「居心地の良い時間・空間」をヒュッゲと言う(らしい)8。
人・過去/未来・苦しみ。何にも囚われない、眼前に広がる風景のみを味わう″いま・ここ″。
それが自然や美術館にはある。渾然一体となる合目的的フローだ。それだけを味わえばいいのだから、すごく開放的だ9。
やはり、ヒュッゲだ。自分までも″のびのび″できる。身体性と精神性がどこまでもずっと伸びていくかのように……。
もちろん、ヒュッゲじゃない時もある。
大勢でごった返していたり、日差しや風が強すぎたりだとか…。そっちに意識が向いてしまう!
それを差し置いても、ヒュッゲはありえないほどの上振れに満ちている。変わった体験を話したい。
23歳の頃、岐阜で一人暮らしをしていた。近くには川が流れており、よく散歩した。

休日のある日、夕方頃に読書をしていた。疲れたので、散歩をしようと川辺へ出かけた。
山々に囲まれ、風に吹かれていた。
夕焼けをぼんやり見ていたら、感謝と慈しみの念がじんわり強く、溢れてきた。それは尋常じゃない纏わりつき方だった。
「いつもする感謝とは違う」と直感的にわかった10。
ここまでではないが、休みの日はヒュッゲの産物をよく味わう。「生きていてよかった」と。
このあたたかい気持ちは「自分にしかできないこと」を少しずつ育んでくれる。
それだけを味わう狂気的自由の中で生活したいと夢見てしまうほど楽しくて、自分らしくあれる。
振り返ろう。「自分にしかできない」と思わせてくれることは、会話と創作だった。
創作は、社会性/社交性が要される現実的な場所・時間とは線引きされている。
″のびのび″できるし、ヒュッゲだ。
「自分にしかできない」会話は、やや難しい。
話題性や上下関係、その時の気分に左右されてしまう(そして、社会性を帯びた現実的な会話に収斂する傾向にある)。
創作はその意味で「線引きされている」。
日常と非日常とが対立しているかのようだ。だが、そんなことない。
次の項では感謝という観点から、それらが地続きであることを見ていこう。
【愛している・有限的存在・学術的感謝】
僕はスマホを愛している。だからこそ付き合い方が大切だ。
かなり熱を上げていたことがある。夜中の3時を回ると目が覚めて、「なんかおもしろいこと…」とスクロールをし続けた……。
連絡、メモ、日記、Podcast、音楽、習慣化。
主にこの機能を使うためスマホを愛用している。
だけど、情報収集はいつも魅力的だ。僕らが敵う相手ではない11!
どんなにアプリを消したって、設定を変えたってなかなかの中毒っぷりだった。
時間の使い方だって、スマホの使い方だってよく知らないのだ。何もせず「わかりました!」ってことはない。
僕らの身体は、大昔からそんな変わっていないらしい。だからこそ、いろいろと向き合い方を考える必要がある。
喜ばしいことに、今はスマホとほどほどの付き合いだ。
ロック画面から切り替わっても、アプリをたくさん非表示にしていて、通知はちょっとだけ。
ちょこちょこっとやりたいことをやって、終わり。

ウィジェットとオートメーションを愛用。
重要だと思うことがある。
この円満な関係の秘訣は、スマホといちゃいちゃする以外に、代替案があることだ。
暇だと何となくスマホを触っている。そこに気づいたのなら、違う手段をせっせこ準備すればいい。
僕は、ランニング、読書、掃除、散歩を代わりにやることが多い。
先ほど述べたように、「僕らは『本当にやらないといけないこと』なんてない」。
それなら、楽しめそうな選択をちょこっと増やしておいてもバチは当たらない。
スマホの話をしたのは、僕らは有限的な存在だということに目を向けたかったからだ。
何もかもできてしまいそうに思えて、そんなことはない。
半信半疑だが、老いるっぽいし、死ぬらしい。
だけれども、(スクロールを続けてしまったように)習慣ずくめの存在でもある。
なんて煩わしいんだろう!
「やりたいこと?そんなのねえよ…」と擦れていたが、違った。
気分がいい時、「あれやりたい!これやりたい!」と思っているのだ。あまりにも忘れてしまうのでメモした。
外国語・自然・動物・歴史・美学の勉強、楽器、作曲、絵、山登り、釣り、映画鑑賞、旅行。
人生100年時代でも拾い切れるか怪しいほどのボリュームだ!
有限ってことを感じることがある。
一冊読み終えて、本屋や図書館に行くとシュンとするのだ。
周りを見渡し、「これ、全部読み終えることはできないんだよな…」と少し落ち込む。
なぜなら、「自分なら何でもできるできる!」と調子に乗ることがあるからだ。
できることは本当に限られている。
砂場のお山にトンネルを掘り、水がちょろちょろ流れる。そんな遊び、記憶にないだろうか?
それと同じことが今起こりつつある。
先ほどまでヒュッゲヒュッゲ言っていたが、「自分にしかできない」ことを希求するのは、僕らが習慣に頼る有限的存在だからだ。
できることは限られていて、いつまで生きているのかもわからない。それでいて、楽になるならヘンテコな習慣でも頼ってしまう。
伏線回収だ。僕は「せっかく生きていくなら、この″のびのび″方面を目指そう」としていたのだった。
なんて″宙ぶらりん″なのだろう!
「有限ならば!」と、「自分にしかできない」ことを求めている。
その一方で、生活をするため、「社会性/社交性が要される現実的な場所・時間」に身を委ねているのだから12。
その状況で何が一番嫌なのだろう?それは、あまり感謝されないこと。
僕らは社会のために、あるいは、周りの人や自分を良くするために働いている/生きているのではなかったのだろうか?
好きな記述がある13。
「感謝」とは、学術的に説明すると「自分にとって何が価値のあるもので、意味のあるものかを理解・認識すること」
林 英恵『健康になる技術大全』p.395
さて、社会的な生活でこのような感謝はあるのだろうか?
確かに、「ありがとう!(あなたがやってくれたことは、私にとって価値があり、意味があります!)」ということはある。
その一方で、どちらかと言えば「仕事だから」、「言わないと失礼だから」と、無意識に/反射的に感謝することの方が多いのではないだろうか14?
ふむ、ずっとそんな「ありがとう!」は疲れてしまうし、頭がどうかしてしまいそうだ。
ただ、供給がちょろっと少ないのではないだろうか?
周りを見てみよう!僕自身、何かを作った覚えなんてない!
心休まるお布団も、落ち着きや刺激を授けてくれる数多の音楽も、ぷるぷる震えなくて済むような服も!(いつもありがとう)
よく言われることだが、何一つ当たり前じゃない。卒がなく生活しているのも、何かで楽しめていることも。
そして、「自分の力で成し遂げた!」なんてこともほんの一握りだ。見えていないだけで誰かの働きがあってのことだ15。
だけれども、僕らはなぜか忘れっぽいので、すぐ自分中心の世界になってしまう。そして適当に「ありがとう」と言う。一体何をやっているのだろう16!
「ありがとう」のおもしろい点は、至るところで言われていることにある。
社会性を備えていて、習慣的でもある。だが、ちょっと待ってほしい!感謝は「自分にしかできない」ことではないか?
というかそうだ。先ほどの引用で思い切り「自分にとって」と書いてある。
「僕/私/俺にとって価値、意味あることはなんだろう?」と、「ありがとう」を通じて考えることができるのだ。
そこには果てしなさが現れる。太陽?聴こえていること?水が飲めていること?何でもいい。誰からも否定されないのだから17。
ただ、忙殺されて、いろいろと余裕がない時がある。疲れ具合、時間的にも何もできないような。
その時、「ありがとう」とはなりにくい。つまり、価値判断が曖昧で、意味を見出すのに時間がかかる。内面に思考や視点が向いている。当然のことだ。
この場合を除いて、「ありがとう」と思えないのは、その価値/意味を理解・認識できない何らかの状況に置かれている、ということになりそうだ。
ちょっと私の悩みを聞いてほしい。
本を読んでいて「生きるのは楽しむため」という旨をそこそこ見かける。うむむ、そうなのだが、そうではない。
いずれ傲慢さが忍び寄ってきそうで、モヤモヤしていた。
「あらゆることが支えてくれているから、楽しめているのでは…?」と腑に落ちていなかった。
社会のため、自分のため、楽しむため、笑うため、あるいは無目的に生きていく。
「生きる」ということに対して思うことは、ほんとに千差万別だ。
提案として、「ありがとう」を増やすために生きていく、というのはどうだろう?
楽しむ、そして感謝を増やすために生きていく。こんな風に組み合わせは比較的自由だ。
やってみる価値はありそうだ。というのも、ものすごく難しい。
習慣的に日々を送ることもあれば、疲弊しきっている時もある。
友達、家族、パートナーと距離が近すぎることもあれば、自分の考えと異なる結果に遭遇することもある。
そこで、日々「ありがとう」と言う/思うのはなかなか骨が折れる。
感情や思考のクセ、習慣が立ちはだかる。そうは問屋が卸さない。
蟻地獄のように、ズズズと「その価値/意味を理解・認識できない何らかの状況」に引き込まれてしまうのだから!
さて、僕は「あまり感謝されない」ことが嫌なのだった。そんな時はどうしたらいいだろう?
正直、わからない(感謝されないことに「ありがとう!」なんて、あまりに皮肉っぽい)。
それでも、感謝する対象を広げていく。それは、すでに知っているものに限らない。
つまり、嫌なこと/ものに対し、無理に価値や意味を付さなくてよい(身が持たない)。
また、学んでいく上で感謝することが増えたっていい。最高だ18。
「当たり前」だと思う一種の傲慢さ、反射的な対応、「自分一人で成し遂げた」という錯覚、消費社会。
僕らは有限的な存在であった。いつか死ぬ。それなのに、これらは生きていく上で陥りやすく、厄介だ!
「『ありがとう』を増やすために生きる」ことは、これらに対し、抗ってくれる。
「ありがとう」は、思考のバランスを保つのに役立つからだ19。
「日々感謝しましょう」と言いたいわけではない。「ありがとう」と言うことは大変なのだ。
「ありがとう」と言うために考え、行動してみる。それは、とても素敵ではないだろうか?
【おわりに】
友達に初めての彼女ができた。3年くらい前だろうか。会う機会があった。
価値観が似ていて、話しているうちに彼女は泣いていた。よく覚えている。
僕らはどうやら自分の人生を歩むことになっているらしい。好む好まざる、前途洋々/前途多難お構いなしに。
びっくりしないだろうか?僕は不思議だ。よくわからない。
「生き方アップデート」が今晩インストールされるわけでもないし、身体が勝手に美ボディになってくれるわけでもない。
一体これは何をしているのだろうか?
「一回きりの人生」だからと言って、何か成し遂げる必要もないのだ。「僕らは『本当にやらないといけないこと』なんてない」のだから。
生きている──ぽっかりと、それだけが浮かんでいる。
よくわからないし、懐疑的だけど僕は存在している。なんとなくいる。
思ったことがある。「結果的に無意味だとしても、誰かが喜んでくれれば十分だ」。
いつか死ぬんだから、あらゆることが無意味?そこは否定できない。
だからこそ、人に喜んでもらう。これが双方向的に連綿と続いてきた/いくのではないだろうか。
今回、書いていて気づいたことがあった。
″のびのび″と学術的感謝との関係性から立ち現れる、生き方の方針だ。
自分自身、疑問に思っていた。
なぜ、″のびのび″と「自分にしかできないこと」に向き合っているのか。
なぜ、ヒュッゲなるものを求めているのだろうか。
「習慣に頼る有限的存在」だから、というのは、本文で見てきた理由の一つだ。
自由な時間があったとしても、今までやってきたことに費やす。理に適った行動だ。
習慣や有限性は怖いものであるが、自分自身をすごく楽にしてくれるものでもある20。
ならば、「生きていてよかった〜」と思える機会を習慣的に創り出していきたい。
以下が、書いていて気づいたことだ。
″のびのび″創作したり、ヒュッゲを体験している時の方が、圧倒的に「ありがたい」と思えているのだ。
齟齬や無理がなく、余裕がかなりある、とも言える21。
あたたかい気持ちになり、よく笑える。有限性を理解し、″今・ここ″に焦点を当て、あらゆるものに自然と感謝できる。
そして、いろんな人に優しくできる。もしかしたら喜んでもらえるかもしれない22。
まとめよう。「ありがとう」と言える/思えるように、″のびのび″、ヒュッゲ、「自分にしかできない」ことを求めている。
この過程では、誰かが喜んでくれるかもしれないのだ。

そうすると、生き方の方針がざっくり見える。
「ありがとう」と言える/思える日々を送れるよう、カチャカチャと日常的要素を組み合わせていけばいいのではないか。
限りある時間、能力なので「うーんうーん」と悩んだり、難しい。だが、「つ、つまらない…」と思うよりかは幾分良い。
不思議だが、自分の人生を歩むことになっているのだから!
最後に、感謝(!)の言葉を述べて締めたいと思う。
読んでいただいた方へ!
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました!良い一日をお過ごしください!
【註釈】
- 話していて、尋常じゃなく楽しい時がある。テンポがよく、現実的な会話ではない。
以前、芥川龍之介の小説、『杜子春』に関するクイズを電話で話していた。
結末がどうなるのかを当てる様は録音しておきたいほどだった。
↩︎ - 以前Podcast(『News Connect』)で、「つまんない人はいないはずだ。自分が楽しめる感性がないだけ」という旨を聴いた。
そう、僕にはその感性がない!
↩︎ - 最近、「最高だったことリスト」を作った。
最高に楽しかったのは、高尾山の頂上から麓まで全速力で駆け下ったこと。
次点で官能小説を書く生活だけをしたこと。どちらも自分とは思えないほどの生命力が滾っていた。
↩︎ - 前回、このようなネガティブ加減を極端に抑えた。割とポップめ。今回はやや重め。
↩︎ - 一応せっせこ働いていたつもりだ!
↩︎ - 友達だろうが家族だろうが、「最高に楽しかったことは何ですか?」みたいな、「一回限り」な会話を続けるのは難しい。
仲の良さが解決してくれるわけでもなさそうだ。
↩︎ - 美術系の雑誌や、作品の解説を見ると、ややこしい言い回しが多い。
僕はあれが好きだ。非現実的な内容ばかり!
↩︎ - 良い思い出がある。皮膚科に行った時の話だ。
すごく穏やかな先生だった。学問的な知識を「〜らしいんだよね」と締めくくっていた。とても素敵だ。
↩︎ - 音楽を聴くこと、車を運転することも、この類に近いので僕のお気に入りだ。
しかし、「ながら聴き」となってしまったり、赤信号やブレーキランプがあったりする。ちょっとだけ異なる。
↩︎ - 案外そうかもしれない。つまり、普段は反射的に/習慣的に「ありがとう」と言っているかもしれない。
甲乙をつけるわけではなく、「今のは雑に感謝してしまったな」と反省する材料になる。
↩︎ - 「ここからが俺/私の意志!」なんて言えないのに、習慣や欲望を「自分ってこうだよな」と同一視してしまう。
だからこそ距離を置く必要があるのではないだろうか。
↩︎ - こうやって文章を書くことで、ホッとできる。
↩︎ - この堅苦しくて、普段とは違う見方が大好きだ。感謝まで学術的に説明していたなんて!
↩︎ - 当然と言えば当然だ。みんな何かしら疲れている。そして考えていること、悩んでいることも多様なのだ。
習慣に頼らなければ、身がホロホロになってしまう。
↩︎ - 友達と私で好きなエピソードがある。
僕が20歳くらいの頃、バイトを辞めることにした。
「30歳くらいにはいい感じの大人になってるんじゃないですかね」と僕は根拠無く言った。
「じゃあ今は?」と店長が尋ねた。「カスです!」即答だった。
謙虚さとバカさ加減がトントンで非常によい。
↩︎ - 大学の教授の言葉。「上下関係の構造に出会ったら、水平にした方がいいよ」。
あんまりまだ理解しきれてないが、思い出す場面がある。例えば、今のような話で!
↩︎ - 仕事や勉強の良いところはここに結びつくこと。学んでいくと、いかに一人で生きていないかがわかる。戦略的に謙虚さを目指せる、といった感じ。
↩︎ - 先日、お姉さんがデートをしていた。以前は、「羨ましいぜ!」どまりだった。
今はちょっと違う。「お兄さん、お姉さんを楽しませてくれてありがとう!」
私が関与できる範囲は限られているのだ。有限的だからこそ感謝する考え方に変わった。
↩︎ - 「感謝することにも慣れてしまうのではないでしょうか?」鋭い質問だ。そうなるだろう。
その時に悩めばいい。目指すべきところが変わらないのなら。
↩︎ - 有限性が楽にしてくれる?そうだ、僕らは何でもかんでもできるわけじゃない。そう思うと一種の諦めが生まれる。
自分も含め、あらゆることに「まあ、しょうがないか」と思える機会が増える。
↩︎ - 「その人/それにしかできない」ことに触れると「自分にしかできない」ことを誘発されるのかもしれない。
↩︎ - こう考えると、「ありがとう」は一回性や有限性を理解/認識していることになるのでは?確かに価値・意味がありそうだ。
↩︎
本当にこれでおしまいです!
ご覧いただき、誠にありがとうございました!


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