【はじめに──結論】
「生き方をとことん考えよう」エッセイです。何かの役に立てれば、とても嬉しいです1!
さて結論は、「「ありがとう」を増やすために生きていくのはどう?」という提案です。
「ありがとう」と言う/思うことは難しい。そこで、「どのように乗り越えていくのか」を一緒に考えていきたい。
その際に、僕らが「うーんうーん」と悩むような事柄も取り上げます。
前回を読んでいなくても大丈夫です!
ゆったり読んでいただけますと幸いです!
【①前提──有限的存在】
このエッセイは、どのような話をしていくのか、″食べること″を比喩に用いてみよう。
野菜、くだもの、お魚、お肉を毎日食べる。とてもおいしい。
ある時、いつもと味付けが違った。
「なんだろう?」と思っていると、これは素材の味らしい。これはこれで良い感じ。
身体のことを気遣って、どちらもバランスよく食べることにした。おしまい。
僕らは生きるために食べている。
では、何のために生きているのだろう?
楽しむため、子供のため、笑うため、あるいは特にない、ということもある。
何でもありだ。この「生きる」に対して思うことは、人によってまったく違う。
「生きる」──僕はこれが不思議に思える。
3歳の姪がいる。この子は「なんだこれ!」が口癖なのだが、僕も同じで「なんだこれ!」と思っている。
たまたま生まれてきて、何となく今もいる。果たして、これは何をやっているのだろう?
この不思議さに拍車をかけることがある。
何であれ「世界は回っていく」ということ。そして、「「本当にやるべきこと」は何もない」ということ2。
生きている──ぽっかりと、それだけが浮かんでいる3。
とかく、これを忘れてしまう。楽しくしていたり、制度/文化的なものに寄り添ったり、習慣に助けてもらっているからだ。
「□□のために生きています!」と言えるのはとても素敵だ。
僕にはそれができなかった。「どの時代でも、どんな人でも馴染みやすい人生の目的」に強く惹かれているからだ。
「普遍的な人生の目的」を追求する理由?
寂しいじゃないか。満員電車でこんなにも肩を寄せ合っているのに、お互い知らんぷり4?
一つ思うことがある。
人に喜んでもらう。これが双方向的に連綿と続いてきた/いくのではないかと5。
正確性はさておき、この″ふにゃふにゃ″な世界観は、身体の強張りが、ほっこり緩んでいく。
「どうやったら喜んでもらえるだろう?」を手がかりとして、考えることができるからだ。
このエッセイを書かなくても、世界は回っていく。「やるべきこと」でもない。
当然、その試みがダメになることもある。
だが、「生きる」不思議さに、「ちょっと待った!」と言うことができる。
人生について、あまりよく分かっていないけれど、「誰かが喜んでくれると、嬉しくなる」ということは分かる。
ならば、「この分かる範囲でちょこちょこ動いていこう」という算段だ(誰が力量以上の範囲で動き続けることができるだろう?)。
そもそも、思い通りにコントロールできるのは自分自身だけだ。それもちょっとだけ。
他のこと?推して測ろう──できない……。
なんてじっとり具合だ!あまりにも湿っぽい!ガツンとした感覚がほしい!
これから人生について考えるのに?
そう、申し訳ない。じっとりと考えていく。
「日々ご機嫌でいる」、あるいは、「自分らしく」生きようとする。
そう心がけて行動しても、ポジティブさ/愉快さだけが残るわけじゃない。
僕らは有限的な存在だ。寿命もあれば、できることも限られているFIREをしても、全てを味わうことは叶わない。なんて煩わしいんだ!)。
不条理なことにも、「きっついな…」と思うことにも遭遇する。
どうしても完全に避けることはできない。
(結果として)晴れ晴れした思いでいるためにも、この暗くて、気が滅入るような側面を見過ごすわけにはいかない。
ただ、見続ける必要はない。何か一つの側面だけを捉える──自分、あるいは世界の方が根を上げてしまう。
世界は回っていく?「やるべきこと」はない?コントロールできるのは自分だけ?できることも限られている?有限的な存在?
お腹いっぱい!今日のところはもういいだろう!さあ、明るくなる話でもしよう!
【②枢要──戦略的謙虚】

「刺激と反応の間には、選択の自由がある」── ヴィクトール・E・フランクルの言葉だ。
ここの節では、この「選択の自由」と「反応」に焦点を当てて、戦略的に謙虚になることを目指したい。
そこには、「習慣」がキータームとなる。さっそく見ていこう。
さて、「刺激」だが、私たちの身の回りに満ちている。「五感で伝わってくるもの」だと考えるとわかりやすいかもしれない。
基本的にコントロールはできない。
一方、「反応」は、意識的、無意識的問わず、私たちが考えたり、行動を起こすことだ。
例えば、雨が降る。そうしたら、「イヤだなあ…」と思ったり、傘を差したりする。
この間には、「選択の自由」があると、フランクルは言う。
前々回、僕の例を紹介した。「もしイライラした時は、人の幸せを願う」というものだ。
イライラすることは当然だと思っていた。
だが、「選択の自由」を認知したために、「人の幸せを願う」という(びっくりするような)反応に取って代わった。
今回は、これと同じよう、「刺激→反応」で、(学術的な)感謝をするようになりたい。
では引用を基に、″学術的な感謝″を見よう。
「感謝」とは、学術的に説明すると「自分にとって何が価値のあるもので、意味のあるものかを理解・認識すること」
林英恵『健康になる技術大全』p.395
予め、伝えておきたいことがある。
それは、自分が嫌い/苦手な対象には「ありがとう」と無理に言わなくていい、ということだ。
みんながみんな、「この渋滞は、私にとって価値があり、意味あるものだ!ありがとう!」と言わなくていい(身が持たない)。
価値や意味をどのように見出すか。これは本当に人それぞれだ。強制や支配もいらない。
感謝はとても自由だ──だが、果たして僕らはどれだけ意識的に感謝しているのだろう?
「言わないと失礼だから」と会話の延長線上で、作法的/無意識的に「ありがとう」と言う割合の方が多くなっていないだろうか。
どうしても、こうなることは避けられない。それはお互いにわかっているから円滑に進む部分もある。
体調が優れていない日はさらに顕著だ。疲弊?寝不足?風邪気味?不安?そんな日に感謝をしようとしたって難しいものがある。
現状、「刺激→反応」で、作法的/無意識的に「ありがとう」と言っている。ここはそのまま。
そうではなく、反応として、(学術的な)感謝を意識的に言う/思う習慣を育てていきたい。
怖がらなくて大丈夫だ。僕らはこれを今までにもやってきた。
あなたがこれまでに一回でも「ありがとう」と言ったことがあるなら、かなり素質がある。
今までにもやってきた──ただ、あらゆることが常態化し、今あることが「当たり前」に思えてしまう。
僕らが豊かさを享受している時、その裏には誰かの働きがある。悲しいことだが、そのことを思い出しては、忘れてしまう。
それに加えて、次のようなこともある。
自意識過剰、自己執着、消費社会、競争社会、現状への懐疑、関心経済、なみなみに漲るコンテンツ。
作法上の感謝、「当たり前」だと思うこと、そして現代的な傾向……。
そう、これらを「どうにかしてやろう」とするわけではない。
習慣として、意識的な感謝を育みたい。そこに、ひたすら標準を合わせたい。
では、なぜこれらを取り上げたのか?
そこに浸りすぎると、一種の傲慢さが芽生える。その結果、他人に対する思いやりが薄れていく傾向にあるからだ。
僕らはできることが限られていて、(姿が見えないとしても)支え合って生きている。
「思いやりの心を持って、接していきましょう!」という訳ではない(あれば最高!)。
(最高/最悪の気分であろうと)自分のことが中心であり続けると、「生きづらさ」に繋がってしまう。
その喜びは欲求に変わり、その欲求が満たされないと、怒りや落胆に駆られるのである。
チャールズデュヒッグ『習慣の力』p.83
卒がなく日々過ごしていることを「当たり前」のように感じる。
感謝できないだけではない。嫌な気分、感情になりやすい。
「いつも(□□)はこうなるはずじゃん」、「本来はこうだ」と。
仕方がないことだらけだ!
僕らは、習慣的に過ごしていく有限的な存在で、コントロールできることも少ない。
ならば、と打ち立てたのが今回の狙いだ。
「無意識的に感謝する習慣が今あるのなら、そこへ意識的に感謝する習慣をぶつけてみよう!」
(価値や意味を見出す)「ありがとう」を習慣によって増やしていく上で、戦略的に謙虚になろうとする。
そうしたら、感情に起因する「生きづらさ」が薄れていく分、生きやすくなるだろう(また、思いやりを持てるかもしれない)6。
それが今回の結論である、「「ありがとう」を増やすために生きていくのはどう?」という提案に結びつく。
少し脱線するが、「増やす」と言うと、「あればあるだけ良い!」、「多い方が優勝!」みたいな向きがあるが、そんなことはない。
自分のできる範囲で、幅を広げたり、深掘りしていけばいい。
「僕/私は今月570回感謝しました!」なんてちょっと滑稽だ。競い合いは成り立たない。ちなみに、KGIもない。
「俺/私は楽しむために生きている!」という方達にも朗報だ。
この人生の目的は、その他の目的と相反するものではない。
つまり、「俺/私は楽しむため、「ありがとう」を増やすために生きている!」とも言える。
自由な組み合わせが実現する。
脱線はおしまい。本題に移ろう。
「ありがとう」と意識的に言う/思う習慣を目指すことはわかった。
それなら、何を対象にしたらいいのだろう?
ここでは、「当たり前」に思っていることに焦点を当てて考えていきたい。
試しにやってみよう。
文字が読めていること、服を着れていること、脈が動いていること、明る日が来ること……。
そう、果てしなく広がっている。あなただけのブルーオーシャンがある。
自分が携わっているものもあるが、他の物事は自分以外の方が作り上げたものだ7。
考えてみれば、全くもって「当たり前」ではない。
だが、お金や疲労、慣れ、無関心、排他的没頭感が、そこに覆い被さり、常態化する。
「そうか、それを理由に感謝したらいい?」そう問われると、言葉に窮する。
なぜなら、感謝することに、「強制や支配もいらない」からだ。
「自分に関することではない」時、明らかに態度が変容していく。ごもっともだ。
ただ、僕ができるのは、「ならやってみようかな…」と思ってもらえるような文章に仕立て上げることだ。
正直に言えば、「意識的に感謝する習慣」を急に身につけることは難航しそうだ。
そこで、あなたのことをきっと助けてくれる考え方を3つ紹介したい。
・サピア・ウォーフの仮説
自分の遣う言葉が、考え方や行動、世界観を形成する(という仮説)。
・If-Thenプランニング
「もし□□の時は△△をする」のように、予め行動を決めておくこと。
・人の幸せを願う
街中で会う人の幸せを願うと、不安が減り、幸福感などが高まる(という実験結果)8。
では、どのように行動を起こしていけばいいのだろうか?例えを記そう。
【例①】
会う人/すれ違う人に、「お疲れ様」や「良い1日になりますように」と心の中で思う。
【例②】
もし、快適さや楽しさを感じた時に、そう感じさせてくれているものに感謝する。
″良い人″すぎて「うげ‼︎‼︎」となるかもしれないが、実際やってみると半端じゃない程、落ち着ける。
そしてなぜか楽しくなる(そしたらまた感謝ができる!)。
サピア・ウォーフの仮説を少しでも信用できるのであれば、やってみる価値はある。また、習慣化の後押しをしてくれるだろう。
「ありがとう」入門編としては、やはり快適さ/楽しさを感じた時が″なめらか″にいく。
「良い思いをさせてくれてありがとう」と。
「ありがてえ…」でも、自分自身に感謝するのでもなんでもアリだろう9。
僕自身が「ありがとう」入門中なので、好き勝手に戦略的謙虚を編み出してもらいたい。
「こんなん聞いたことないけど、やったらすごく上手くいきました」みたいな。
喜びの連鎖ほど喜べるものはない。
そう思うのには訳がある。
状況/日によっては、この世界が素晴らしくも、ブルシットにも思える。
「選択の自由」と「反応」がここにもあり、悩ましかった。
生きてる間、ずっと続いていくのだから。
「やっぱりこの世界は素晴らしい」、「生きていてよかった!」──そういう想いを抱きたいのは、おかしなことなのだろうか?
限られた範囲で、周りに感謝しつつ、自分の感覚や世界観をあたたかくしていく。
そして思う。「この世界は素晴らしい」と感じる人がポツリポツリと増えていく。これを社会貢献と呼ばないのなら、何と呼ぼう?
【③互恵──柔軟的紐帯】
読書──それは、感謝を加速させる……。
こんな感じで述べようとしたが、やめやめ!少しだけ触れて、違うトピックに移ろう。
読書は、数値化、再現性、話題性に乏しい、孤独な営みだ。
現代社会で馴染めていないことにも頷ける。
定額料金も、コメント欄も、通信量も、通知も、ボディーランゲージも、「あれ見た?」みたいなこともない。
本は、たくさんの知らないことだ。
「すげえ人がいっぱいいる!」と、ビッグな気分の自分を宥めてくれる。
読書は、気づいていなかったことの窓を開け、僕らはその新鮮な空気の中で感謝することができる。
「読書?いいよね!」という旨はこれくらいに留めておこう。本題だ。
読書にも作用・反作用がある。つい最近になってこのことを思い知った。
7年前から「ほう」、「ふむ」と言って本を読んできた。正直良いことばかりだった。
だが、いつからだろうか。
他人に向かって「ふん!」だとか、「本読めばいいのに…」だとか思うようになったのは。
「良いと思ったことは共有したい」。その思いが熱を帯びすぎて、ショートしてしまった。
僕は趣味が読書の一般人だ。それ以外特筆すべきこともない。
それは強みでもあり、弱みでもあったのだ。
「本を読んだら、こんな良いことがあった!どう?読まない?」
僕が高校生の頃まで遊び呆けていたから言えることだ。
確実に楽しくなったこと、読書は始めやすいこと。この2つがカチリと組み合わさった。
この(誰にでも開かれているような)弾む感覚を分かち合いたかった。
だが、どうも空回りしてしまう。
周りを見ると、時間の使い方や感じること、喋ることに違いが生じてきている。
まるで一人の世界──この楽しみも、この苦しみも、誰にも打ち明けることはできないのだろうか?
それでもページを捲る手は止まらなかった。
僕には僕のやることがあり、それは他の人に対しても言えることだった。
先日、あまりにも疲れすぎていた。
続きを書こうと、このエッセイを読み返すと、「なるほど」と思うことが多々あった。
そして、この過度な疲労の原因が分かった。対立しているのだった。
どうしても、嫌に思えることや「なんで?」と感じることはある。
それでも、場を読んだり、「大人になる」ために和やかでいようとする。
読書が受け入れられなかったり、「なんで?」と思うことは構わない。
ただ、そのことがあった後、反芻し、「これが続く」と考え、その対象を(一時的/持続的に)対立したものと捉えることが、まずかった。
あまりに酷い場合は距離を置きたいが、自分自身「でも、対立したいわけじゃないしな」と思うことが可能だった10。
僕らは一人で生きているのではない。できれば感謝して生きていきたい、というのが、今回の論調だった。
対立/邪魔だと思うことは、この障壁となっている。
どちらが上とか、対立構造とかが薄れてきている時に、感謝は立ち現れると考える。
街中には色んな人がいる。一人一人と繋がることはおそらく無理だ。
だが、心の中で蔑んだり、敵意を向けたりする人生は避けたい。
それは街中でなくともそうだったのだ。
すべては地続きではないだろうか?
一つの感情をとってみても、理解し得ない影響が広がっていく。
できる限りで、自律的な考えや行動に切り替えていく。
それが習慣となれば、ものすごく楽になるだろう──いつか、納得がいくようになるためにも。
「こうあるべき」とは、もちろん考えないが(それは対立構造となる)、手始めにできることは紹介してきたつもりだ。
対立などをしない繋がりや、考え方──柔軟的紐帯──は、あらゆることに作用してくるだろう。
もちろん、感謝することも含めて。

これまで述べてきたことをまとめると、このような画像になるだろうか。
有限的な存在などを前提とし、「ありがとう」を言う/思うようになっていく。
そこには様々な習慣が、あるいは、「ありがとう」という習慣が、作用し合う。
もちろん、それだけではない。あらゆることに遭遇し、机上の空論となってしまうかもしれない。
それでも、──機能することがなくなるまでも──やってみる価値はあるだろう。
僕自身、このような論を聞いたことないが、やってみるとしっくりくるものだ。
学術的な感謝をしない。周りのものの価値や意味がないものだと(無意識的にも)捉えてしまうのは、あまりにも悲しい。
目に見える/見えない、知っている/知らないことであっても、労いや感謝はできる。
生まれてくる──よくわからないし、環境によって大きく左右される。
だが、何かしらの希望が必要だった。環境に左右されずとも、自ら育んでいけるものが。
一回限りの日々/人生だからではない。僕が元気で楽しそうにしていることが、利他的となるからだ。
思うことがある。利己的であることは、利他的にも繋がると。
そうだとしても、元気/楽しみの手段を問わないわけでもない。
戦略的に謙虚を目指し、対立構造を生み出さないようにすることが必要だと感じている。
果てしなく永く、永く感じた。
けれども、誰かの目に留まり、少しでも役に立ってもらえるのであれば、幸甚である。
僕が一般人であることの強みと弱み。その清濁を味わっていただけるのなら、幸いだ。
【おわりに──結論】
転職活動で京都駅に向かった。国籍の異なる人々が行き交い、魅力に溢れていた。
ふと、「何かで僕らは分かり合えないのか」と疑問に思った。
規模の大きさを痛感し、自分が俯瞰的になっていることに真新しさを覚えた。
私はあなたのことを知らない。あなたも私のことを知らない。
ぽつねんと置かれた僕らは何ができるだろう?
一つ明確に思っている。
分かり合えない、それは人を傷つける理由にはならない──身近な人、自分を含めて。
流動的に心身が移ろいでいくため、どうしても傷つけ/傷つけられることがある。
それでもコントロールできるのは、自分のほんの一部だけ。
そこで、「「ありがとう」を増やすために生きていくのはどう?」という結論だ──せめて、敵意や悪意を向けないためにも。
「待って待って」と必死に、とてとて後を付いてくる子犬のような結論だ。
子犬に気付き、振り返り、抱きしめ、撫でてみる。その柔らかさ、温かさ、可愛さ。
その時、「こんな感じでいいんだ」とぼんやり考えることができるのである。
【おまけ──参考文献一覧】
「行動と思考が変わったな」と思え、このエッセイの中核となった書籍だ(著者名省略、順不同)。
携わってくださった方々、ここまで読んでくださった方、機会をくれた創作大賞に、心からお礼を申し上げたい。
本当にありがとうございました!
・『習慣の力』
・『暇と退屈の倫理学』
・『健康になる技術大全』
・『疲労回復 最強の教科書』
・『世界は贈与でできている』
・『不完全主義』
・『Not To Do List』
・『村上さんのところ』
・『ユーモアは最強の武器である』
・『考えてはいけないことリスト』
【註釈】
- マッチングアプリをやっていて思った。「出会うためにエッセイを書いてもいいよな」。
コンセプトは「僕の内面が知られていくと、どのような人に出会えるのか」。
↩︎ - このエッセイが5000文字くらいの時、データがぶっ飛んでしまった。0文字だ!
あまりにびっくりしていたが、それでも世界は回っていた。こんなにびっくりしたのに?
↩︎ - 生きているのに、「やるべきこと」がない。これが、趣味嗜好/行動の多様性、あるいは、苦悩の根源となるのだろう。
色んな制約があるからこそ、「あれやらなくちゃ、これやらなくちゃ」となる。
そこで、ふと立ち止まる時。それが冒頭の比喩に繋がる。いつもの味付けと違い「なんだろう?」となる。
↩︎ - おそらくだが、この原体験がある。17歳、大学受験に向けて勉強していた頃だ。
高校生活がとても楽しかったのだが、この時、周りがあまりにも変わってしまった(と強く感じた)。
勉強をしていているのだから当然だ。どちらかと言えば、僕はゆったり勉強していた。
なので、もっと遊びたかったし、もっとふざけたかった。
「出身大学はこの先を左右する」とは夢にも思っていなかったので、ちょっとずつ、でも確実に日々の彩りが減っていった。
ある時、保健室でカウンセラーの方と話をした。「周りが変わってしまった」と。
ものすごくすっきりした。帰り道の自転車、笑いながら泣くくらいに。
次の日、クラスメイトにカウンセリングの良さを説いていた。「あんなに良かったんだから、周りにも教えなきゃ!」と。
それを見た担任の先生が、とても褒めてくれた。恥を忍ばず、良いと思ったことを勧めている姿勢を。
↩︎ - 後述する、「サピア・ウォーフの仮説」と有限性から思ったことがある。
誰かに対して、羨ましいと思ったことはないだろうか?俳優やアイドル、芸術家など。
僕はある。でも、『私以外私じゃないの』。当たり前だけど。
その人にはその人の喜ばせ方、影響力がある。その種類、過多に限らず、「ありがたいな」としんみり思う。
敷衍したら、街中で会う方々もそうだ。僕ができていないことをやってくれている。ここが、このエッセイの立脚点だ。
どうも自分の人生を歩むしかないのだから、これでやっていくしかない。
なら、みんなで喜ばせ合えばいい。本心だ。
↩︎ - 生きていくにあたって、謙虚さが基盤にあったら、こんなにも心強いことはない。
正直、謙虚さが先か、「ありがとう」が先かは不明瞭だ。相互的だとは思うのだが。
↩︎ - 暴飲暴食したって、寝ている時だって、身体はせっせこ働いてくれている。
メカニズムがよくわからなくたって、「ありがとうね」と労ったっていい。
↩︎ - 『疲労回復 最強の教科書』(p.210)、『考えてはいけないことリスト』(pp.184-185)参照。
↩︎ - 感謝して後悔したことなんてあるだろうか?
僕は真面目でじっとりした奴だ。
これらの習慣によって、楽しめる、笑える場面が大いに増えたのだ。
つまり、じっとりしてても、OKだ。心からおすすめする。
↩︎ - 「刺激→反応」で言えば、「反応」として、対立していた。
そこに「If-Thenプランニング」を挟み込む。
「刺激」として嫌なことに会ったら、「本当に対立するべきか?」と立ち止まる。
「反応」として、「でも、対立したいわけじゃないしな」と出力される。
後は、感謝できるものにも目を向ければいいのではないだろうか。
↩︎
本当にこれでおしまいです!
ご覧いただき、誠にありがとうございました!

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