「出会い系エッセイ3」8,479字

人間性メキメキエッセイ
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【はじめに──結論】

 「生き方をとことん考えよう」エッセイです。何かの役に立てれば、とても嬉しいです1

 さて結論は、「「ありがとう」を増やすために生きていくのはどう?」という提案です。

 「ありがとう」と言う/思うことは難しい。そこで、「どのように乗り越えていくのか」を一緒に考えていきたい。

 その際に、僕らが「うーんうーん」と悩むような事柄も取り上げます。

 前回を読んでいなくても大丈夫です!

 ゆったり読んでいただけますと幸いです!

【①前提──有限的存在】

 このエッセイは、どのような話をしていくのか、″食べること″を比喩に用いてみよう。

 野菜、くだもの、お魚、お肉を毎日食べる。とてもおいしい。

 ある時、いつもと味付けが違った。

 「なんだろう?」と思っていると、これは素材の味らしい。これはこれで良い感じ。

 身体のことを気遣って、どちらもバランスよく食べることにした。おしまい。

 僕らは生きるために食べている。

 では、何のために生きているのだろう?

 楽しむため、子供のため、笑うため、あるいは特にない、ということもある。

 何でもありだ。この「生きる」に対して思うことは、人によってまったく違う。

 「生きる」──僕はこれが不思議に思える。

 3歳のめいがいる。この子は「なんだこれ!」が口癖なのだが、僕も同じで「なんだこれ!」と思っている。

 たまたま生まれてきて、何となく今もいる。果たして、これは何をやっているのだろう?

 この不思議さに拍車をかけることがある。

 何であれ「世界は回っていく」ということ。そして、「「本当にやるべきこと」は何もない」ということ2

 生きている──ぽっかりと、それだけが浮かんでいる3

 とかく、これを忘れてしまう。楽しくしていたり、制度/文化的なものに寄り添ったり、習慣に助けてもらっているからだ。

 「□□なになにのために生きています!」と言えるのはとても素敵だ。

 僕にはそれができなかった。「どの時代でも、どんな人でも馴染みやすい人生の目的」に強く惹かれているからだ。

 「普遍的な人生の目的」を追求する理由?

 さみしいじゃないか。満員電車でこんなにも肩を寄せ合っているのに、お互い知らんぷり4

 一つ思うことがある。

 に喜んでもらう。これが双方向的に連綿れんめんと続いてきた/いくのではないかと5

 正確性はさておき、この″ふにゃふにゃ″な世界観は、身体の強張こわばりが、ほっこり緩んでいく。

 「どうやったら喜んでもらえるだろう?」を手がかりとして、考えることができるからだ。

 このエッセイを書かなくても、世界は回っていく。「やるべきこと」でもない。

 当然、その試みがダメになることもある。

 だが、「生きる」不思議さに、「ちょっと待った!」と言うことができる。

 人生について、あまりよく分かっていないけれど、「誰かが喜んでくれると、嬉しくなる」ということは分かる。

 ならば、「この分かる範囲でちょこちょこ動いていこう」という算段だ(誰が力量以上の範囲で動き続けることができるだろう?)。

 そもそも、思い通りにコントロールできるのは自分自身だけだ。それもちょっとだけ。

 他のこと?推して測ろう──できない……。

 なんてじっとり具合だ!あまりにも湿っぽい!ガツンとした感覚がほしい!

 これから人生について考えるのに?

 そう、申し訳ない。じっとりと考えていく。

 「日々ご機嫌でいる」、あるいは、「自分らしく」生きようとする。

 そう心がけて行動しても、ポジティブさ/愉快さだけが残るわけじゃない。

 僕らは有限的な存在だ。寿命もあれば、できることも限られているFIRE経済的自立をしても、全てを味わうことは叶わない。なんて煩わしいんだ!)。

 不条理なことにも、「きっついな…」と思うことにも遭遇する。

 どうしても完全に避けることはできない。

 (結果として)晴れ晴れした思いでいるためにも、この暗くて、気が滅入るような側面を見過ごすわけにはいかない。

 ただ、見続ける必要はない。何か一つの側面だけを捉える──自分、あるいは世界の方が根を上げてしまう。

 世界は回っていく?「やるべきこと」はない?コントロールできるのは自分だけ?できることも限られている?有限的な存在?

 お腹いっぱい!今日のところはもういいだろう!さあ、明るくなる話でもしよう!

【②枢要──戦略的謙虚】

画像1   刺激→選択の自由→反応

 「刺激と反応の間には、選択の自由がある」── ヴィクトール・E・フランクルの言葉だ。

 ここの節では、この「選択の自由」と「反応」に焦点を当てて、戦略的に謙虚になることを目指したい。

 そこには、「習慣」がキーターム重要となる。さっそく見ていこう。

 さて、「刺激」だが、私たちの身の回りに満ちている。「五感で伝わってくるもの」だと考えるとわかりやすいかもしれない。

 基本的にコントロールはできない。

 一方、「反応」は、意識的、無意識的問わず、私たちが考えたり、行動を起こすことだ。

 例えば、雨が降る。そうしたら、「イヤだなあ…」と思ったり、傘を差したりする。

 この間には、「選択の自由」があると、フランクルは言う。

 前々回、僕の例を紹介した。「もしイライラした時は、人の幸せを願う」というものだ。

 イライラすることは当然だと思っていた。

 だが、「選択の自由」を認知したために、「人の幸せを願う」という(びっくりするような)反応に取って代わった。

 今回は、これと同じよう、「刺激→反応」で、(学術的な)感謝をするようになりたい。

 では引用を基に、″学術的な感謝″を見よう。

「感謝」とは、学術的に説明すると「自分にとって何が価値のあるもので、意味のあるものかを理解・認識すること」

林英恵『健康になる技術大全』p.395

 あらかじめ、伝えておきたいことがある。

 それは、自分が嫌い/苦手な対象には「ありがとう」と無理に言わなくていい、ということだ。

 みんながみんな、「この渋滞は、私にとって価値があり、意味あるものだ!ありがとう!」と言わなくていい(身が持たない)。

 価値や意味をどのように見出すか。これは本当に人それぞれだ。強制や支配もいらない。

 感謝はとても自由だ──だが、果たして僕らはどれだけ意識的に感謝しているのだろう?

 「言わないと失礼だから」と会話の延長線上で、作法的/無意識的に「ありがとう」と言う割合の方が多くなっていないだろうか。

 どうしても、こうなることは避けられない。それはお互いにわかっているから円滑に進む部分もある。

 体調が優れていない日はさらに顕著だ。疲弊?寝不足?風邪気味?不安?そんな日に感謝をしようとしたって難しいものがある。

 現状、「刺激→反応」で、作法的/無意識的に「ありがとう」と言っている。ここはそのまま。

 そうではなく、反応として、(学術的な)感謝を意識的に言う/思う習慣を育てていきたい。

 怖がらなくて大丈夫だ。僕らはこれを今までにもやってきた。

 あなたがこれまでに一回でも「ありがとう」と言ったことがあるなら、かなり素質がある。

 今までにもやってきた──ただ、あらゆることが常態化し、今あることが「当たり前」に思えてしまう。

 僕らが豊かさを享受している時、その裏には誰かの働きがある。悲しいことだが、そのことを思い出しては、忘れてしまう。

 それに加えて、次のようなこともある。

 自意識過剰、自己執着ナルシシズム、消費社会、競争社会、現状への懐疑、関心経済アテンション・エコノミー、なみなみにみなぎるコンテンツ。

 作法上の感謝、「当たり前」だと思うこと、そして現代的な傾向……。

 そう、これらを「どうにかしてやろう」とするわけではない。

 習慣として、意識的な感謝を育みたい。そこに、ひたすら標準を合わせたい。

 では、なぜこれらを取り上げたのか?

 そこに浸りすぎると、一種の傲慢さが芽生える。その結果、他人に対する思いやりが薄れていく傾向にあるからだ。

 僕らはできることが限られていて、(姿が見えないとしても)支え合って生きている。

 「思いやりの心を持って、接していきましょう!」という訳ではない(あれば最高!)。

 (最高/最悪の気分であろうと)自分のことが中心であり続けると、「生きづらさ」に繋がってしまう。

その喜びは欲求に変わり、その欲求が満たされないと、怒りや落胆に駆られるのである。

チャールズデュヒッグ『習慣の力』p.83

 そつがなく日々過ごしていることを「当たり前」のように感じる。

 感謝できないだけではない。嫌な気分、感情になりやすい。

 「いつも(□□なになに)はこうなるはずじゃん」、「本来はこうだ」と。

 仕方がないことだらけだ!

 僕らは、習慣的に過ごしていく有限的な存在で、コントロールできることも少ない。

 ならば、と打ち立てたのが今回の狙いだ。

 「無意識的に感謝する習慣が今あるのなら、そこへ意識的に感謝する習慣をぶつけてみよう!」

 (価値や意味を見出す)「ありがとう」を習慣によって増やしていく上で、戦略的に謙虚になろうとする。

 そうしたら、感情に起因する「生きづらさ」が薄れていく分、生きやすくなるだろう(また、思いやりを持てるかもしれない)6

 それが今回の結論である、「「ありがとう」を増やすために生きていくのはどう?」という提案に結びつく。

 少し脱線するが、「増やす」と言うと、「あればあるだけ良い!」、「多い方が優勝!」みたいな向きがあるが、そんなことはない。

 自分のできる範囲で、幅を広げたり、深掘りしていけばいい。

 「僕/私は今月570回感謝しました!」なんてちょっと滑稽だ。競い合いは成り立たない。ちなみに、KGI重要目標達成指標もない。

 「俺/私は楽しむために生きている!」という方達にも朗報だ。

 この人生の目的は、その他の目的と相反あいはんするものではない。

 つまり、「俺/私は楽しむため、「ありがとう」を増やすために生きている!」とも言える。

 自由な組み合わせが実現する。

  脱線はおしまい。本題に移ろう。

 「ありがとう」と意識的に言う/思う習慣を目指すことはわかった。

 それなら、何を対象にしたらいいのだろう?

 ここでは、「当たり前」に思っていることに焦点を当てて考えていきたい。

 試しにやってみよう。

 文字が読めていること、服を着れていること、脈が動いていること、あくる日が来ること……。

 そう、果てしなく広がっている。あなただけのブルーオーシャンがある。

 自分が携わっているものもあるが、他の物事は自分以外の方が作り上げたものだ7

 考えてみれば、全くもって「当たり前」ではない。

 だが、お金や疲労、慣れ、無関心、排他的没頭感が、そこにおおかぶさり、常態化する。

 「そうか、それを理由に感謝したらいい?」そう問われると、言葉にきゅうする。

 なぜなら、感謝することに、「強制や支配もいらない」からだ。

 「自分に関することではない」時、明らかに態度が変容していく。ごもっともだ。

 ただ、僕ができるのは、「ならやってみようかな…」と思ってもらえるような文章に仕立て上げることだ。

 正直に言えば、「意識的に感謝する習慣」を急に身につけることは難航しそうだ。

 そこで、あなたのことをきっと助けてくれる考え方を3つ紹介したい。

・サピア・ウォーフの仮説

 自分のつかう言葉が、考え方や行動、世界観を形成する(という仮説)。

・If-Thenプランニング

 「もし□□なになにの時は△△あれこれをする」のように、あらかじめ行動を決めておくこと。

・人の幸せを願う

 街中で会う人の幸せを願うと、不安が減り、幸福感などが高まる(という実験結果)8

 では、どのように行動を起こしていけばいいのだろうか?例えを記そう。

【例①】

 会う人/すれ違う人に、「お疲れ様」や「良い1日になりますように」と心の中で思う。

【例②】

 もし、快適さや楽しさを感じた時に、そう感じさせてくれているものに感謝する。

 ″良い人″すぎて「うげ‼︎‼︎」となるかもしれないが、実際やってみると半端じゃない程、落ち着ける。

 そしてなぜか楽しくなる(そしたらまた感謝ができる!)。

 サピア・ウォーフの仮説を少しでも信用できるのであれば、やってみる価値はある。また、習慣化の後押しをしてくれるだろう。

 「ありがとう」入門編としては、やはり快適さ/楽しさを感じた時が″なめらか″にいく。

 「良い思いをさせてくれてありがとう」と。

 「ありがてえ…」でも、自分自身に感謝するのでもなんでもアリだろう9

 僕自身が「ありがとう」入門中なので、好き勝手に戦略的謙虚を編み出してもらいたい。

 「こんなん聞いたことないけど、やったらすごく上手くいきました」みたいな。

 喜びの連鎖ほど喜べるものはない。

 そう思うのには訳がある。

 状況/日によっては、この世界が素晴らしくも、ブルシットだめだめにも思える。

 「選択の自由」と「反応」がここにもあり、悩ましかった。

 生きてる間、ずっと続いていくのだから。

 「やっぱりこの世界は素晴らしい」、「生きていてよかった!」──そういう想いを抱きたいのは、おかしなことなのだろうか?

 限られた範囲で、周りに感謝しつつ、自分の感覚や世界観をあたたかくしていく。

 そして思う。「この世界は素晴らしい」と感じる人がポツリポツリと増えていく。これを社会貢献と呼ばないのなら、何と呼ぼう?

【③互恵──柔軟的紐帯】

 読書──それは、感謝を加速させる……。

 こんな感じで述べようとしたが、やめやめ!少しだけ触れて、違うトピックに移ろう。

 読書は、数値化、再現性、話題性に乏しい、孤独な営みだ。

 現代社会で馴染めていないことにもうなずける。

 定額料金も、コメント欄も、通信量も、通知も、ボディーランゲージも、「あれ見た?」みたいなこともない。

 本は、たくさんの知らないことだ。

 「すげえ人がいっぱいいる!」と、ビッグな気分の自分をなだめてくれる。

 読書は、気づいていなかったことの窓を開け、僕らはその新鮮な空気の中で感謝することができる。

 「読書?いいよね!」という旨はこれくらいに留めておこう。本題だ。

 読書にも作用・反作用がある。つい最近になってこのことを思い知った。

 7年前から「ほう」、「ふむ」と言って本を読んできた。正直良いことばかりだった。

 だが、いつからだろうか。

 他人ひとに向かって「ふん!」だとか、「本読めばいいのに…」だとか思うようになったのは。

 「良いと思ったことは共有したい」。その思いが熱を帯びすぎて、ショートしてしまった。

 僕は趣味が読書の一般人だ。それ以外特筆すべきこともない。

 それは強みでもあり、弱みでもあったのだ。

 「本を読んだら、こんな良いことがあった!どう?読まない?」

 僕が高校生の頃まで遊びほうけていたから言えることだ。

 確実に楽しくなったこと、読書は始めやすいこと。この2つがカチリと組み合わさった。

 この(誰にでも開かれているような)弾む感覚を分かち合いたかった。

 だが、どうも空回りしてしまう。

 周りを見ると、時間の使い方や感じること、喋ることに違いが生じてきている。

 まるで一人の世界──この楽しみも、この苦しみも、誰にも打ち明けることはできないのだろうか?

 それでもページをめくる手は止まらなかった。

 僕には僕のやることがあり、それは他の人に対しても言えることだった。

 先日、あまりにも疲れすぎていた。

 続きを書こうと、このエッセイを読み返すと、「なるほど」と思うことが多々あった。

 そして、この過度な疲労の原因が分かった。対立しているのだった。

 どうしても、嫌に思えることや「なんで?」と感じることはある。

 それでも、場を読んだり、「大人になる」ためになごやかでいようとする。

 読書が受け入れられなかったり、「なんで?」と思うことは構わない。

 ただ、そのことがあった後、反芻し、「これが続く」と考え、その対象を(一時的/持続的に)対立したものと捉えることが、まずかった。

 あまりに酷い場合は距離を置きたいが、自分自身「でも、対立したいわけじゃないしな」と思うことが可能だった10

 僕らは一人で生きているのではない。できれば感謝して生きていきたい、というのが、今回の論調だった。

 対立/邪魔だと思うことは、この障壁となっている。

 どちらが上とか、対立構造とかが薄れてきている時に、感謝は立ち現れると考える。

 街中には色んな人がいる。一人一人と繋がることはおそらく無理だ。

 だが、心の中で蔑んだり、敵意を向けたりする人生は避けたい。

 それは街中でなくともそうだったのだ。

 すべては地続きではないだろうか?

 一つの感情をとってみても、理解し得ない影響が広がっていく。

 できる限りで、自律的な考えや行動に切り替えていく。

 それが習慣となれば、ものすごく楽になるだろう──いつか、納得がいくようになるためにも。

 「こうあるべき」とは、もちろん考えないが(それは対立構造となる)、手始めにできることは紹介してきたつもりだ。

 対立などをしない繋がりや、考え方──柔軟的紐帯ちゅうたい──は、あらゆることに作用してくるだろう。

 もちろん、感謝することも含めて。

画像2 これまでの振り返り

 これまで述べてきたことをまとめると、このような画像になるだろうか。

 有限的な存在などを前提とし、「ありがとう」を言う/思うようになっていく。

 そこには様々な習慣が、あるいは、「ありがとう」という習慣が、作用し合う。

 もちろん、それだけではない。あらゆることに遭遇し、机上の空論となってしまうかもしれない。

 それでも、──機能することがなくなるまでも──やってみる価値はあるだろう。

 僕自身、このような論を聞いたことないが、やってみるとしっくりくるものだ。

 学術的な感謝をしない。周りのものの価値や意味がないものだと(無意識的にも)捉えてしまうのは、あまりにも悲しい。

 目に見える/見えない、知っている/知らないことであっても、労いや感謝はできる。

 生まれてくる──よくわからないし、環境によって大きく左右される。

 だが、何かしらの希望が必要だった。環境に左右されずとも、自ら育んでいけるものが。

 一回限りの日々/人生だからではない。僕が元気で楽しそうにしていることが、利他的となるからだ。

 思うことがある。利己的であることは、利他的にも繋がると。

 そうだとしても、元気/楽しみの手段を問わないわけでもない。

 戦略的に謙虚を目指し、対立構造を生み出さないようにすることが必要だと感じている。

 果てしなく永く、永く感じた。

 けれども、誰かの目に留まり、少しでも役に立ってもらえるのであれば、幸甚である。

 僕が一般人であることの強みと弱み。その清濁を味わっていただけるのなら、幸いだ。

【おわりに──結論】

 転職活動で京都駅に向かった。国籍の異なる人々が行き交い、魅力に溢れていた。

 ふと、「なにかで僕らは分かり合えないのか」と疑問に思った。

 規模の大きさを痛感し、自分が俯瞰的になっていることに真新しさを覚えた。

 私はあなたのことを知らない。あなたも私のことを知らない。

 ぽつねんと置かれた僕らは何ができるだろう?

 一つ明確に思っている。

 分かり合えない、それは人を傷つける理由にはならない──身近な人、自分を含めて。

 流動的に心身が移ろいでいくため、どうしても傷つけ/傷つけられることがある。

 それでもコントロールできるのは、自分のほんの一部だけ。

 そこで、「「ありがとう」を増やすために生きていくのはどう?」という結論だ──せめて、敵意や悪意を向けないためにも。

 「待って待って」と必死に、とてとて後をいてくる子犬のような結論だ。

 子犬に気付き、振り返り、抱きしめ、撫でてみる。その柔らかさ、温かさ、可愛さ。

 その時、「こんな感じでいいんだ」とぼんやり考えることができるのである。

【おまけ──参考文献一覧】

 「行動と思考が変わったな」と思え、このエッセイの中核となった書籍だ(著者名省略、順不同)。

 携わってくださった方々、ここまで読んでくださった方、機会をくれた創作大賞に、心からお礼を申し上げたい。

 本当にありがとうございました!

・『習慣の力』

・『暇と退屈の倫理学』

・『健康になる技術大全』

・『疲労回復 最強の教科書』

・『世界は贈与でできている』

・『不完全主義』

・『Not To Do List』

・『村上さんのところ』

・『ユーモアは最強の武器である』

・『考えてはいけないことリスト』

【註釈】

  1.  マッチングアプリをやっていて思った。「出会うためにエッセイを書いてもいいよな」。
     コンセプトは「僕の内面が知られていくと、どのような人に出会えるのか」。
    ↩︎
  2.  このエッセイが5000文字くらいの時、データがぶっ飛んでしまった。0文字だ!
     あまりにびっくりしていたが、それでも世界は回っていた。こんなにびっくりしたのに?
    ↩︎
  3.   生きているのに、「やるべきこと」がない。これが、趣味嗜好/行動の多様性、あるいは、苦悩の根源となるのだろう。
     色んな制約があるからこそ、「あれやらなくちゃ、これやらなくちゃ」となる。
     そこで、ふと立ち止まる時。それが冒頭の比喩に繋がる。いつもの味付けと違い「なんだろう?」となる。
    ↩︎
  4.  おそらくだが、この原体験がある。17歳、大学受験に向けて勉強していた頃だ。
     高校生活がとても楽しかったのだが、この時、周りがあまりにも変わってしまった(と強く感じた)。
     勉強をしていているのだから当然だ。どちらかと言えば、僕はゆったり勉強していた。
     なので、もっと遊びたかったし、もっとふざけたかった。
     「出身大学はこの先を左右する」とは夢にも思っていなかったので、ちょっとずつ、でも確実に日々の彩りが減っていった。
     ある時、保健室でカウンセラーの方と話をした。「周りが変わってしまった」と。
     ものすごくすっきりした。帰り道の自転車、笑いながら泣くくらいに。
     次の日、クラスメイトにカウンセリングの良さを説いていた。「あんなに良かったんだから、周りにも教えなきゃ!」と。
     それを見た担任の先生が、とても褒めてくれた。恥を忍ばず、良いと思ったことを勧めている姿勢を。
    ↩︎
  5.   後述する、「サピア・ウォーフの仮説」と有限性から思ったことがある。
     誰かに対して、羨ましいと思ったことはないだろうか?俳優やアイドル、芸術家など。
     僕はある。でも、『私以外私じゃないの』。当たり前だけど。
     その人にはその人の喜ばせ方、影響力がある。その種類、過多に限らず、「ありがたいな」としんみり思う。
     敷衍ふえんしたら、街中で会う方々もそうだ。僕ができていないことをやってくれている。ここが、このエッセイの立脚点だ。
     どうも自分の人生を歩むしかないのだから、これでやっていくしかない。
     なら、みんなで喜ばせ合えばいい。本心だ。
    ↩︎
  6.  生きていくにあたって、謙虚さが基盤にあったら、こんなにも心強いことはない。
     正直、謙虚さが先か、「ありがとう」が先かは不明瞭だ。相互的だとは思うのだが。
    ↩︎
  7.  暴飲暴食したって、寝ている時だって、身体はせっせこ働いてくれている。
     メカニズムがよくわからなくたって、「ありがとうね」と労ったっていい。
    ↩︎
  8.  『疲労回復 最強の教科書』(p.210)、『考えてはいけないことリスト』(pp.184-185)参照。
    ↩︎
  9.  感謝して後悔したことなんてあるだろうか?
     僕は真面目でじっとりした奴だ。
     これらの習慣によって、楽しめる、笑える場面が大いに増えたのだ。
     つまり、じっとりしてても、OKだ。心からおすすめする。
    ↩︎
  10.  「刺激→反応」で言えば、「反応」として、対立していた。
     そこに「If-Thenプランニング」を挟み込む。
     「刺激」として嫌なことに会ったら、「本当に対立するべきか?」と立ち止まる。
     「反応」として、「でも、対立したいわけじゃないしな」と出力される。
     後は、感謝できるものにも目を向ければいいのではないだろうか。
    ↩︎

 本当にこれでおしまいです!

 ご覧いただき、誠にありがとうございました!

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